北大江街案内 / 歴史ストーリー
上町台地北端より(vol.1)
大阪のまちなかを南北に貫く高台・上町台地。音楽が流れるまち・北大江は、その上町台地の北端に位置しています。
5~6千年前の遥か昔。
縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、生駒山系のふもとや千里丘陵の縁まで海が入り込んでいました。大阪平野には河内湾と称される内湾がありましたが、当時の上町台地はその河内湾と大阪湾を隔てるように北へ延びていた半島で、北大江付近は半島北端の岬にあたりました。波も穏やかな内海沿いには縄文の村々が築かれ、豊かな海の幸と台地の森の幸を享受できる豊かな暮らしがあったと思われます。
その後、海岸線は次第に後退していきますが、1500年ほど前には朝鮮半島や中国大陸方面とのつながりが活発になり、北大江の高台からは海の向こうと行き来する船が、たくさん見られたようです。また、その船に乗って東アジアの人々が日々往来し、さまざまな言葉が飛び交い、文化が荷卸しされる国際的なまちでもあったようです。大阪城公園の南側にある難波宮跡や大阪歴史博物館の南広場に復元された高倉が、今も往時を偲ばせます。(八軒家かいわいマガジンのHP→津の国ものがたり・なにわ津)
平安時代なかば頃から、遠く紀州の熊野三山へ参詣する熊野詣が流行しました。当時の都・平安京だった京都から北大江の北縁を流れる大川まで船で下り、そこから徒歩で熊野をめざしました。後白河上皇や平清盛など当時の著名人も通ったその道は熊野街道とも呼ばれ、北大江公園の西端を通るお祓い筋には、街道跡を示す碑が建っています。
また、上町台地には四天王寺をはじめとする社寺が古来より建てられてきました。生国魂神社や坐摩神社、高津宮など大阪市内の主な神社も、建立当初は北大江界隈にあったと言われています。北大江公園から少し西には坐摩神社の行宮が今も鎮座しています。
そして、中世の終わりには京都山科から本願寺が移転し、世にいう石山本願寺とその寺内町が栄えることになります(vol.2へつづく)
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