歴史ストーリー
北大江歴史絵巻~ロシア正教会~
北大江たそがれ野外コンサートの会場である北大江公園の北側の一角、現在も風情を残す石階段の東側に、江戸期から明治期にかけて三橋楼という大きな旅館がありました。幕末の志士や明治維新の立役者たちが祝宴や会議に利用したと言われています。天満橋、天神橋、難波橋の三橋を一望できる大きな旅館だったようです。
北大江公園の周りにはたくさん旅館があったようですね。現在も南側には料亭大乃やさん、東側にはあい粂旅館さんがあります。昔は京伏見との船の拠点として、たくさんの旅人が往来していたのだと思います。時代が遡って現在はたくさんの海外からの観光客の方が往来しています。
そしてさらに不思議な歴史のめぐり合わせにより、その三橋楼の旅館の一角に明治期なぜかロシア正教会が開かれます。当時どういう方々がロシア正教の信者として通っていたのか、想像が膨らみます。三橋楼の建物が建替えられた後は、ロシア風の洋館の建物に代わり、第二次世界大戦で焼けた跡、さらにまた建て直しが行われ、昭和30年代頃まで北大江公園の北側に教会がありました。現在教会は吹田市に移っています。
北大江たそコン人気のポスターやTシャツなどのイラストレーター八軒家南斎さんが描いたロシア正教石町教会です。当時はどんな街だったんでしょうか?北大江界隈には時代を超えてまだまだ色々なエピソードがありそうです^^
上町台地北端より(vol.1)
大阪のまちなかを南北に貫く高台・上町台地。音楽が流れるまち・北大江は、その上町台地の北端に位置しています。
5~6千年前の遥か昔。
縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、生駒山系のふもとや千里丘陵の縁まで海が入り込んでいました。大阪平野には河内湾と称される内湾がありましたが、当時の上町台地はその河内湾と大阪湾を隔てるように北へ延びていた半島で、北大江付近は半島北端の岬にあたりました。波も穏やかな内海沿いには縄文の村々が築かれ、豊かな海の幸と台地の森の幸を享受できる豊かな暮らしがあったと思われます。
その後、海岸線は次第に後退していきますが、1500年ほど前には朝鮮半島や中国大陸方面とのつながりが活発になり、北大江の高台からは海の向こうと行き来する船が、たくさん見られたようです。また、その船に乗って東アジアの人々が日々往来し、さまざまな言葉が飛び交い、文化が荷卸しされる国際的なまちでもあったようです。大阪城公園の南側にある難波宮跡や大阪歴史博物館の南広場に復元された高倉が、今も往時を偲ばせます。(八軒家かいわいマガジンのHP→津の国ものがたり・なにわ津)
平安時代なかば頃から、遠く紀州の熊野三山へ参詣する熊野詣が流行しました。当時の都・平安京だった京都から北大江の北縁を流れる大川まで船で下り、そこから徒歩で熊野をめざしました。後白河上皇や平清盛など当時の著名人も通ったその道は熊野街道とも呼ばれ、北大江公園の西端を通るお祓い筋には、街道跡を示す碑が建っています。
また、上町台地には四天王寺をはじめとする社寺が古来より建てられてきました。生国魂神社や坐摩神社、高津宮など大阪市内の主な神社も、建立当初は北大江界隈にあったと言われています。北大江公園から少し西には坐摩神社の行宮が今も鎮座しています。
そして、中世の終わりには京都山科から本願寺が移転し、世にいう石山本願寺とその寺内町が栄えることになります(vol.2へつづく)
上町台地北端より(vol.2)
中世から近世の変わり目には争乱が続く戦国時代が起きました。各地で一向一揆を起こした一向宗の本山であった石山本願寺は、瀬戸内海の東端に面し、淀川や大和川の水運を通じて京の都や大和盆地などともつながる地の利もあって、織田信長と対立することになります。いわゆる石山合戦という10年余にわたった戦乱が北大江界隈にも波及してきました。(八軒家かいわいマガジンHP→津の国ものがたり・楼の岸)
そして、信長の跡を継いだ羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉が、本願寺跡地に大坂城を築城し、北大江界隈はその城下町として整備されます。北大江公園の南側に東西に広がる島町は町名は、豊臣家の五奉行の一人・石田三成の家老であった島左近の屋敷跡にちなむという伝承もあります。
豊臣大坂城は400年前の大坂冬の陣・夏の陣を経て落城し、徳川家康の孫の一人・徳川忠明が大坂のまちの戦後復興を担いました。北大江の東側は奉行所などの武家地、西側は商業地となり、天下の台所であった大坂の一翼を担うまちへと発展していきます。
また、大川端の八軒家浜には船着き場が整備され、淀川を上り下りしたり、大阪と全国各地を結ぶ菱垣廻船などの大船とのあいだをつなぐ川船の発着場としにぎわいました。土佐堀通付近や北大江公園あたりには船を使う商人や旅人が利用する旅館も多く建ち並びました。(八軒家かいわいマガジンHP→津の国ものがたり・八軒家浜)
上町台地北端より(vol.3)
明治維新を経て、大阪のまちは近代化・西洋化しはじめます。北大江界隈も洋服関連の繊維業が立地しはじめました。また大川の舟運に代わり、京都と大阪を結ぶ鉄道のターミナル(現京阪本線天満橋駅)も造られ、市電網も整備されて、交通拠点としての機能も近代化していきました。しかし、次第に影を落としてきた戦争が空襲という形で北大江を襲います。一帯は6月7日と7月10日の大空襲により、すべてが灰燼に帰しました。(八軒家かいわいマガジン→大阪大空襲あの日あの時)
戦災復興の歩みは道路の拡幅や地区東側の官公庁街化などを通して、まちの姿を一新しました。繊維のまち・商都大阪の一画として、高度経済成長期にはとてもにぎやかなまちでした。70年代に入るとマンションが建ちはじめ、都心居住の地として再びまちの装いを進化させてきました。
そして現在の北大江のまちは、利便性に富みながらも、休日や夜間は静かな都心として古くから住み続けている方、新たに引っ越してこられた方、この地で働く方や学ぶ方など多くのみなさんに愛される続けています。